はじめまして
ネガティブな思考を受け入れ解放することで
自然と心のゆとりを取り戻し
自分らしくシンプルに生きる方法を見つけるお手伝いをしている
心理セラピストのさえこです。
子育て問題、夫婦問題、職場での人間関係の悩み、アダルトチルドレン、夫源病、不安障害、うつ、愛着障害、トラウマなど、人生の生きづらさで悩んでいる方のカウンセリングをさせていただいています。
私もかつて、自分自身の悩みに直面しました。楽しむことができず、夫や友人との会話が苦痛でした。
変わりたいと願い、お金をかけていろんなことを試しましたが、なかなか改善されませんでした。
また落ち込んでは悩んだり。。負のループに陥っていました。
当時の私は、私が周りに合わせればいいんだ。自分ができるから代わりにすればいいんだと、他人軸で生きていたのが原因でした。
しかしカウンセリングに出会い、自分が不必要に相手を気にしてしまう心に存在する感情に気づくことができ、過去と向き合い、修復していく過程で、辛かったことから解放され、自分らしく生きることができるようになりました。
人生は長いようでとても短いです。
過去に起こったことは決して消すことはできませんが、気づいた時点で自分自身を変えることは誰にでもできると思います。
私のようにどうしていいのかわからず、もがいて悩む時間を少しでも減らしてほしいと切実に願います。
なぜこんなに生きづらかったのか。実はとてもシンプルなことだったら早く気づきたいと思いませんか?
カウンセリングは、あなたとカウンセラーの相性が大切です。
まずは私自身のことを紹介させてください!
<プロフィール>
父親が病気だったため、迷惑をかけてはだめだと思う幼少期
私は、愛知県名古屋市出身で、父、母、兄、姉、妹の5人家族で育ちました。
気性の激しい家族の中で、私は幼いころから内向的で静かな方でした。
父親が重度の精神疾患を患っていたことから、家庭は常に厳しい状況に直面していました。
そのため母は常に精神的に参っている様子から、母に迷惑をかけないようにと思って過ごしていました。
私が5歳の時、まだ自転車に乗れなかった私は、母が乗る自転車の後ろの荷台に、落ちないように母の腰に手をまわして座っていました。
ある日、いつものように母は私を連れて、近くのお店へ買い物に行った日のことでした。
いつものように母は母が乗る自転車の後ろの荷台に私を乗せて自転車をこいで帰る道中、
ふとした瞬間に私の左足首が後輪に挟まってしまったのです。
私は痛くて泣きたい感情ももちろんありましたが、それ以上に母を困らせてしまうのではないかという不安でいっぱいでした。
”母は忙しいのにわたしのせいで病院へ行かないといけなくなってしまった。”
”病院代がかかってしまう。”
”私が自転車に乗ることができたら、こんなことにならなかったかも。”
怖さと不安で泣きたい気持ちはありましたが、痛いと母には伝えることはできませんでした。
母は慌てて私を病院へ連れて行きました。幸い2針縫う程度の怪我でした。
このことが原因で、私は自転車に対する恐怖心で、なかなか自転車に乗る練習に向き合えませんでした。
そして、そういった心情は、もちろん親には話せませんでした。
反抗期がなかった学生時代
学生時代は父の病気を常に隠していました。父が精神疾患であることが非常に恥ずかしいことと感じていたのです。
父親は幼少期から努力を惜しまず、難関大学に特待生として進学・卒業し、大企業での安定したキャリアを築いていました。
しかし、就職後に精神疾患が悪化し、出勤と休養の繰り返しとなりました。この状況を友人や知人に知られたくなく、父親が病気だということをひたすら隠していました。
幼少時代から学生時代は、親族との付き合いもほどほどにあったのですが、その時に必ず出てくる話題として、父親の病気のことがありました。
そして容姿や学歴の指摘、比較が常にありました。
特に私は他の兄弟に比べ、父親のように物静かで真面目に学業に取り組んでおり、何よりも顔が父親似であったため、私のことを否定されていると思い込んでいました。
母も含め親族は精神疾患である父を非難するのに対して、聞きたくないと思うと同時に、そう思われても仕方がないと割り切っていました。
母や親族が父親は精神疾患だということを世間に隠すことに、気づけば私もそうすべきだと思い込みます。
当時の私は、父に一番似ているから自分も精神疾患に思われると恐れていました。
自分も重い精神疾患になるのではないか、それとも親族が父を見下したように私も人から思われるのではないかと常に不安でした。
学生時代の多感期であった自分は、精神疾患の父の症状で、精神的にとても振り回されました。
”父親だから”ではなく、”病気だから仕方ないんだ”
と自分が望む父親像を捨て、一人の患者なんだと自分を言い聞かせて、理解に努めました。
一番に両親に私の気持ちを伝えたかったのを常に押し殺していました。
病気なのはわかるし、きっと無理なのだけれども少しは私の気持ちもわかってほしい。
と思う気持ちも常に抑え込むことが求められる状況でした。
このように両親がいっぱいいっぱいな姿で、迷惑をかけてはいけないとばかり思っていたため、私には反抗期がありませんでした。
その影響か、友人関係でも他人に合わせることが中心でした。
友達との関係においても、他者の期待や願望に応えることが優先され、自らの気持ちや予定を後回しにすることがよくありました。
その結果、自分の時間や価値観を犠牲にしてまで他者に合わせることが当たり前のようになり、他人軸で生きることが癖になり、自分が持てない子になっていました。
”価値観のズレ”に気づき孤独感を味わう結婚生活
ご縁があり、外国人と結婚した私は、早々生活習慣や異なる文化から”価値観のズレ”が生じます。
夫婦間で何か問題が起きると、常に義父母が間に入ってくれていました。
私は悩みや問題が出た時に両親に相談するという選択肢が幼少時代からあまりなかったため、当初は義父母が間に入ってくれていることに対してとてもありがたいと思っていました。
しかし、気づけばすべて私が誇張しただけだとのことで済まされてしまっていました。
そして問題が解決されなかったために、パートナーと義父母に説得され、私は精神科へ行くことになりました。
診断後、特に処方する薬もないとのことでした。
病気ではかったのだと安心した自分もいましたが、それと同時にパートナーと義父母に対して”価値観のズレ”に気づきました。
その”価値観のズレ”に直面しても、義父から、
”合わせられる人が合わせればいい”
と半ば変わらない自分の息子に合わせてくれとのお願いにも聞こえました。
後からわかったことですが、パートナーはADHD傾向発達障害、うつ病、そしてパニック障害でしたので、負担をかけてほしくないということだったのだと思います。
私が我慢すればいいだけのこと。と自分に言い聞かせるしかありませんでした。
子育て中に気づいた夫婦間でのズレ
その後、とても愛らしい2人の子供たちに恵まれました。
しかしそのうちの一人に重度のアトピー・重度の遠視が判明しました。
アトピーに関してはパートナーとパートナーの親族は心配し、西洋医学の治療を勧めてくれましたが、私自身はどうしても強い薬で処置する以外の方法は探せないかと拒否します。
”価値観のズレ”はさらに大きくなっていきました。
その大きな要因として、パートナーは外国人で西洋医学のみを理解していたので、東洋医学に関して全く信じていない様子だったからでもあります。
そのためパートナーは心配や関心はあるものの、傍観者のような態度や言動のみで、私は心の支えになってもらえていないと思いこんでいました。
パートナーの周りから意見やジャッジにも悩まされ、自分を責める日々が続きました。
子供の発達障害がわかり、過度な心配をする子育て
追い打ちをかけるように、子供が学習障害と不安障害と診断されました。
発達が遅いと感じてはいたものの、敏感になり過ぎだと言い聞かせていましたが、診断された時はとてもショックでした。
それから子供への異常な心配をし始めます。
勉強ができないことでいじめられているのではないのかと心配し、私は真っ当な子育てと勘違いした言葉を子供にぶつけてしまっていました。
”みんなについていけるように、○○の勉強をしなさい”
”お友達と上手に話せるように、本を読んだ方がいいよ”
しかし、本を一緒に読んでいても、あくびの連発。本人は勉強も全く興味なし。
そんな子供の態度に私はのイライラ度は増すばかり。
とにかく一般的なレールになんとか沿うように、スピーチセラピー、オキュペーショナルセラピー、特別家庭教師、いろんなことを試しますが、あまり効果も感じられず。
パートナーに相談してもこれといった意見はなく。
極度の悲しみや不安を抱きながらも、パートナーはADHD傾向発達障害、うつ病、そしてパニック障害があるから、
自分が我慢して、自分が子供を支えていかないといけないのだ
と言い聞かせていました。
家族経営に携わり始め、がっかりする自分
そんな状況の中、私は子育てをしながら、パートナーが経営する会社にも携わり始めました。
家族経営だったので、当然のこと彼の家族も携わっていました。
今まで私が働いてきた企業は、会社の理念があり組織化されていたので、こんな経営でも成り立つのかと思ったのが第一印象でした。
身内同士のもめごとが中心でした。
現状はとてもひどい状況でした。従業員から、経営に関しての不平不満の声ばかりを聞いていました。
現場での様子を確認すると問題は数えきれないほど出てきましたが、働きやすい環境を目指して、一つずつできることを変えていきました。
公私混同する身内とうまく仕事ができず、適応障害に
他の従業員も義兄に合わせる傾向にあり、与えられた義兄への仕事も彼の気分次第で進まないことがあったりし、困った私はクライアントへはただ平謝りをする日々が続きました。
自分が我慢すれば、物事は止まらずに進められると思い続け、社長(夫)に合わせひたすら目の前にある仕事に向き合っていました。
しかし、その環境に強いストレスを受け心身に不調が表れ始め、適応障害なります。
病気がきっかけで心身共に崩れ始め衰弱した自分自身に気づく
身体のサインを無視し、めまい、頭痛、閃輝暗点、帯状疱疹の繰り返しに苦しみながらも、目の前の課題に集中していました。
しかし、婦人科系の病気にかかり、仕事を一時中断せざるを得なくなりました。
この時、私は立ち止まりました。そして自分自身を鏡で見た時。。。。
明らかに衰弱している自分の姿。
今まで自分を顧みることなく過ごしてきたことに気づかされました。
精神疾患を患っていた父親のそばで付き添っていた私は、病院で処方されたお薬だけでは完治することは難しいと確信していました。
なので、私は東洋医学、自然療法、心理学を学び、自分の身体のためにたくさんのことを試しました。
その心理学を学んでいる中で、専門カウンセラーを紹介してもらい、カウンセリングを初めて受けることなりました。
カウンセリング後、心のゆとりを取り戻し始める
このカウンセリングを受ける前までは、カウンセリングなんてただ聞いてもらうだけで、その場しのぎのようなものと思っていました。
しかし、その専門カウンセラーからは、私が自分でこころの軌道修正ができるように導いてくださったのです。
そこで悪循環に陥る心理の仕組みを知りました。
アンバランスだった私の生活に必要なことに気づくことができました。
悩みを整理していき、専門カウンセラーと一緒に自分の心を癒していきました。
心に余裕ができ、仕事の断捨離をした結果、私生活も充実し始めるきっかけに
カウンセリングを受け始めて、私はリモートのみでできる仕事のみ携わるという条件で、一旦職場の現場から身を引く決意をしました。
仕事においても私が物理的に距離を保つことによって、こころの境界線もきちんと引けるようになったのです。
仕事も自身がリモート化することによって、最小限の仕事のみに絞ることができました。
そして、職場も困惑があったようですが、直ぐに落ち着いた様子でした。
パートナーと適切な距離感で理解し合い始める
仕事からも物理的距離を置いたことによって、ほぼ24時間同じ空間にいましたが、パートナーとの距離も離すことができました。
離れた当初は、パートナーの心情が心配でしたが、まず自分を大事にすることが大切だということに気づくことができたので、時間が解決してくれると信じていました。
パートナーと敢えて距離を置いたことによって、パートナーに父親・夫として、私自身が期待しすぎていたことにも気づくことができました。
自然と心の余裕ができると普段の生活でもお互いの笑顔が増えました。
それから少しずつ、お互いが感謝する気持ちを伝えあうようになれました。
子供に過干渉だったことに気づけたことで、子供への接し方も変えることができた
ネガティブで障害を持つ子供に対する悲観的な考え方だったのですが、少しずつその子のペースで成長していくことが親としての一番の悦びだったことに気づくことができました。
そして障害があるからと立ち止まるのではなく、本人の個性として受け取り、その時に応じて何を必要としているのか判断するようになっていきます。
さらに他人軸で物事をジャッジしていた自分が、それが子供に影響を与えていたことに気づきました。
子供の軸を把握し、歩む歩幅も合わせることによって、子供の自信にも繋がっていくと確信が持てるようになりました。
心のゆとりを取り戻せた今
過去、私は人間関係で自分の感情をうまく伝えられずに抱え込んでいました。
しかし、心のゆとりを取り戻した現在、その経験を生かし、人間関係や自己表現に悩んでいる人々をサポートしています。
心理療法を学び、自分自身の安定を取り戻すためのワークを積み重ねてきました。
この経験から得た知識と経験をもとに、心理セラピストとして活動しています。
子育て問題、夫婦問題、職場での人間関係の悩み、アダルトチルドレン、夫源病、不安障害、うつ、愛着障害、トラウマなど、人生の生きづらさで悩んでいる方へ、不安を和らげるワークや適切な距離感を知るワークなど、心の安心の土台を作り、自己表現をサポートするワークを提供しています。
いつもマイナス思考で人生が楽しくなかったり 、他人の幸せに嫉妬し、自分の世界に閉じこもっていて、それらの悩みを解消する答えが見つからず、毎日生きづらいとおもわれている方が、健全な人間関係を築けるようになり、笑顔が増えてほしいと願っています。